最近思うのだ、俺ぁ一体何をやってるんだろう、と。

 いまいち先も見えないまま、いまいち何も理解しないまま、その場しのぎに何かに応えて、その場しのぎに誰かに応えて・・・。

 前は普通に思ってたことがくだらなくて仕方ない。
 前は楽しめていたモノが楽しめない。
 前からとても楽しかったモノは・・・まぁあいかわらず楽しい。

 今の日々の積み重ねが俺を創るのだとしたら、俺ぁ一体何になるって言うんだろうな。

 ほんとはこーいうネガティブ思考好きじゃねーんだ。
 常にしてるから。

 常にネガティブであるが故に、開き直ってポジティブな選択肢を選んで生きていけてるのかもしれないな。

 よく言えば究極のリスク回避思考な訳だ、「進め、道の先に罠なんてあるはずがない

 

 なーんて、ちょっぴりダウナーな感慨に溺れた二日前は、俺の誕生日だったりしたわけで。

 ちなみに友人勢からの今年のプレゼントはうまい棒60本でした。ちくしょう、おまいらクオリティ高すぎw
見えないことも気づかない事もまだまだたくさんありますな(’A`)

わかんねー事だらけだとイライラする。

だから、わかんねー事が減るのは嬉しい。

でも"わかる"って実際どういう事なんだか。

理解することとはまた違う気がするんだけどね。

無意識にできてることをわかるのが一番難しいのかもしれない。

はぁ(’△`)もっといろいろわかりてーな・・・。

Untouchable

2005年8月22日 たわごと
 自分でもな(’A`)

 ちょっと最近思うところがあって、昔事をよく思い出す。
 
 例えば思わせぶりなこととか。

 例えば理不尽なこととか。

 例えばちょっと失望したこととか。

 例えばかなり失望したこととか。

 例えば誰かを認めることを諦めたこととか。

 例えば確率≒0な大博打をうったこととか。

 結局負けたこととか。

 手探りで歩いていく中で、常に誰かの襟首に手を引っかけて引っ張ってもらってきてばっか、よく考えたら完全に自分の意志で何かを決めたことってないんじゃなかろうか、とふと思った。

 何でもいいよだとか、どっちでもいいよだとか、判断を人に任してばっかで、責任から逃れてばっかで。誰かがやるんならだとか、誰かが行くんならだとか、誰かに追従するだけ、失敗したときの逃げ道を用意してるだけ。

 あぁ・・・、自分で書いててあまりのしょうもなさに泣けてきたよ(’A`)

 

 要はあれだ、根性つけねーとダメ、これだ!(マジかw
まだまだ思索は続く
 人は死んだらどうなるんだろうか?
 この世界には質量保存の法則があるから、ぱっと消えてなくなるという事はない。
 人は、超大規模な記号列(遺伝子)の集合の集合といえる。人は死ぬことで人という集合と、遺伝子という集合を失うが、内包されていた記号列は何らかの形で残るんでは無かろうか?
 「生まれ変わり」という概念があるが、長い時間の中で、回収されていった記号列集合が似通った場合がそれなんじゃなかろうか?とか。

 輪廻転生だとか生まれ変わりだとか、宗教論的に考えるとたいして面白くないけど、数学的なモノかも、と考えると結構面白いかもね・・・なんてのは理系人間のエゴかな(苦笑

 で、数式化してみる

Qi={(((a)+)((b)+)...)*|a,b,...⊆∀記号)(i=0,1,2,...)
 Q:最小単位記号列

(((Qi)+)*)⊆Gj(j=0,1,2,...) G:遺伝子集合

(((Gj)+)*)⊆Human(x) (x≒6.5×10^8) Human;ヒト集合

Human(x)⊆World

うはw自分で書いてて意味わかんなくなってきたヽ(´・`)ノ

一晩経って

2005年8月10日 たわごと
一晩経って
 なんかスゲー動揺してたのが文面から伺えるなぁ、とか。

 まぁ、落ち着け俺、って感じですね。

以下徒然事。

 死を求める人もいれば死を恐れる人もいます。
 欲望の対象でもあれば恐怖の対象でもあります。

 抗えないことが死を一種の神聖なモノに昇華してるんでしょうかね?
 「そんな簡単に"死ぬ"なんて言うな!」なんていう説得の台詞がよくありますよね?でも、「そんな簡単に"死ぬな"なんて言うな!」とは誰も言いません。死ぬって言葉に本当に意味を込めて言う事はそんな簡単な事じゃないはずだけど、誰も突っ込みません。それは「生きてることはすばらしい」という一種の既成概念があるからです。(ちなみに俺は別に死にたいとは思っていませんし、できるなら生きていたいと思っていますよ。)
 でも心底生きることを求めている人がいるんだから、死を求めてる人だっているはずです。その間に理解が生まれることは無いでしょうがね。

 死に意味を求めるのは間違いなんでしょうか?
 終わり=無意味ではないと思います。

 ダラダラ書いてる内に何が言いたいかわからなくなってきました。そして、なんだか変な宗教の勧誘文みたいになりました。

 ・・・正直言いたいことを正確に伝えるのは苦手なんですよ。
 嘘をつくのとごまかすのは得意なんですけどね。

 ただ思うんですよね、「もしこれを書き終わった次の瞬間死んだら、そこに意味はあるだろうか?」と。






 願わくば実りある死への旅を。

散文失礼。
 ただいま微妙な帰省中、実家でマターリと過ごしております。

 着替えぐらいしか持って帰ってきてない上に実家のパソコンはモニターぶっ壊れててあれなため、娯楽はもっぱら読書。帰ってくる途中で小説2冊と漫画3冊、散髪の帰りに小説2冊を購入、今朝方読み切ったので今から本屋だぁあというノリです(おぃおぃ

 世の中には、漫画を読むことは読書と捉えない妙な習慣があります。でもそれっておかしいですよ、俺たち若者(この言い方ちょっとやだけどw)にしてみれば、小難しい新書なんぞより、漫画から得ることの方が数倍多いんですからね。

 別に、漫画に感化されろだとか、新書がくだんねーだとか、そういうことを言ってる訳じゃないっすよ?ただ、同じ本という娯楽の中で「漫画<小説など」っていう構図があるのがなんだかおかしかねーかぃ?ってだけの話。

全くもっての一人よがりなタワゴト、気にしたら負けーヽ(´・`)ノ
 自分(例えば俺”ぐれ”)は、自分を知ってるヒトの数だけ存在する、なんてのはよく言われる話だけど、そのどれもが実物(ホンモノ)ではないけど本物(ホンモノ)なわけです。ヒトはヒトを認識する他のヒトが存るから存在できてる、と。

 そう考えると、ヒトの中には、そのヒトが知ってるすべてのヒトに対する自分定義型が詰まっていて、そこから自分がどういう人間なのか推理している・・・のではないか、と。

 だから自分を見つけるにはいろんなヒトと知り合って、自分を数多くサンプリングすることが大切なんじゃないかと思うわけですよ。自分は探すモノじゃなくて浮き彫りになるモノなんじゃないかなぁ・・・とか。

 あぁ、でも俺、他人の評価とかけっこうどうでもいいなぁ・・・矛盾してるじゃんこの理論(・A・)

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